復活者列伝 04 ─20年の空白を埋めたのは『専門性』。家康が、クビにした元部下を呼び寄せた【本多正信】

今回のテーマは「現場の信条」と「経営方針」の決裂、そして20年という気の遠くなるようなブランクを経てのカムバックです。パチンコホールの現場感覚を無視した本部のやり方に反旗を翻し、一度は組織を離れた経験を持つ方に、ぜひ読んでいただきたい物語です。

    本多正信(ほんだ まさのぶ)は、徳川家康がまだ「松平元康」と名乗っていた黎明期からの部下だった。当時の徳川家(松平家)は、まだ地域密着の中小企業。正信は、現場のスタッフや地域住民(寺社勢力)との橋渡しを得意とする、調整能力に長けた若手幹部として期待されていた。彼は単なる命令系統の遵守よりも、「現場がいかに納得して動くか」を重んじるリアリストだった。

      永禄6年(1563年)、組織を揺るがす大事件が起きる。「三河一向一揆」だ。若きオーナー・家康は、軍資金確保のために、これまで「手を付けてはならない」とされてきた寺社の権益(税金の免除、商業プラットフォームの手数料など)を強引に剥がそうとした。

      「現場のルールを無視したやり方は、必ず組織を割る」

      正信は進言したが、血気盛んな家康は聞き入れない。ついに正信は、現場スタッフ(門徒)たちの側に立ち、オーナーである家康に公然と反旗を翻したのだ。現代で言えば、「現場を無視した無理な粗利確保の方針」に反対し、店長・スタッフを率いてストライキを主導したようなものだ。結果、一揆は鎮圧され、正信は「裏切り者」として業界を追放(解雇)された。

        組織を追われた正信は、そこから約20年間、歴史の表舞台から消える。この間、松永久秀(戦国屈指のインテリ)のもとを訪れたり、鷹匠として各地を歩いたという伝承がある。この空白期間こそが彼の真骨頂だった。

        彼は放浪中、各地の組織がいかにして栄え、いかにして滅びるかを観察し続けた。法律、税制、民衆の心理。現場の視点を持ちながら、国家レベルの「統治理論」を独学で磨き上げたのだ。組織という看板を失っても、彼は「知略という専門性」をアップデートし続けていた。

          天正10年(1582年)、徳川家は地方の中小企業から、広域を支配する大企業へと急成長を遂げていた。ここで家康は壁にぶち当たる。武力(営業力)だけでは、複雑化した組織を管理しきれなくなったのだ。

          家康が必要としたのは、現場の心理を知り抜き、かつ法律に詳しく、高度な法治・戦略を立案できる参謀(コンサルタント)だった。

          大久保忠世という武将の「正信は、その智謀、絶倫にして、埋もれさせるには惜しき才能に候」という進言を受け、家康は私情を捨て、20年前に自分に逆らった正信に使いを出した。

          「過去の遺恨は問わない。水に流す。今の徳川には、お前の知恵が不可欠だ」

          かつての反逆者が、最高戦略責任者(CSO)として奇跡のカムバックを果たした瞬間だった。

            正信はその後、家康の最側近として江戸幕府の基礎を築く。

            江戸時代の言行録『名将言行録』には、「正信は我が友なり。我が心を知る者は、ただ正信のみ」という家康の言葉が記録されている。かつて現場を守るためにオーナーと戦った男が、最後にはそのオーナーから「友」と呼ばれるまでの信頼を得た。

            大事なことは「組織を離れても、牙を研ぎ続けているか」だった。
            上司やオーナーと信念がぶつかり、居場所を失うことは、正義感の強い人間ほど経験するだろう。しかし、会社を去ることは終わりではない。組織という盾がない場所で、どれだけ「自分だけの専門性」を磨けるか。
            20年の空白があろうとも、貴方の持つスキルが「組織の成長にどうしても必要だ」と思わせるレベルに達していれば、かつて貴方を追い出した組織ですら、平伏して呼び戻しに来るのである。

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