三代目が目指す「多様性」の実現|徳田 智一 株式会社 三栄 代表取締役社長 前編

島根県、鳥取県を中心に「ジャンボ」の屋号でパチンコホール8店舗を展開する三栄ジャンボグループ(島根県松江市)。2026年4月に代表取締役に就任した徳田智一氏は、常務だったコロナ禍に、反対する経営陣を説得し、回転すし店2店舗のM&Aに踏み切った。その後、会社はフィットネス、居酒屋、複合カフェ、農業へと事業多角化を進めることになった。多角化の必要性を強く主張してきた徳田社長は、創業家の長男として後継者としての宿命を受け入れつつも、常に「既存のレール」に抗い、「新たな会社のありかた」を模索してきた。

文=田中 剛(Answers 編集長) text by Tanaka Tsuyoshi

──10代の頃はどのような様子だったのでしょう?

徳田 中学は水泳に、高校はスポーツ推薦で進学して水球に打ち込んでいました。鳥取県立の由良育英高校(現・鳥取中央育英高校)という、『名探偵コナン』で知られる漫画家の青山剛昌先生の出身校でもある学校で、水球、駅伝の強豪校でした。水球部の練習はすごく厳しかったですね。寮生活だったので、朝から夜まで仲間と一緒の楽しい高校時代でした。私自身は、とにかく周囲を笑わせたい一心で悪ふざけばかりしている「調子乗り」な生徒で、はしゃぎすぎて大怪我したり、規律違反して先生に叱られたりしていました。もしも当時SNSが流行していたら、バカな動画を上げて問題になっていたでしょうね(笑)。

──その頃、会社を継ぐという意識はありましたか。

徳田 子どものころから祖父(創業者)から、「いずれお前が継ぐんだぞ」と言われて育ちましたが、中学時代は思春期特有の反抗心がありました。「自分の道は自分で切り開きたい、親が敷いたレールには乗りたくない」という、「尾崎イズム」のような。就職を意識し始めた大学3年の頃には、後継者として「やってみよう」という腹は固まっていました。

──大学はなぜ福岡だったのでしょう?

徳田 山陰は日本で一番、二番に人口が少ない田舎です。やはり大都市への憧れがあります。地元を出て大学に進むとしたら、ほとんど皆、大阪に行きます。だから、あえて福岡を選びました。皆と違うことがしたかったので。その当時、『ミリオンゴッド』など爆裂AT機があり、『北斗の拳』が登場したというタイミングですからパチスロの人気絶頂期ですね。そのちょっと後に、パチンコMAXタイプが登場し、パチンコが再び盛り上がった。そんな時代ですから、パチスロにハマりました。それでも、なんとなく「パチンコやパチスロは、経営側から見たらどういうものなんだろう?」という興味を持っていたように思います。私が育ったのは鳥取県で、本社は島根県ですし、高校から寮に入っていたので、家業のパチンコ店を間近で見て育っていないんです。

──学生時代、パチンコ店でのアルバイト経験はあったのですか。

徳田 はい。家業のことは伏せて、アルバイトをしました。ただ、「修行」という意識はなく、アルバイトのひとつ。他にも、大手ファミリーレストランや大手衣料品店でもバイトをしました。そういったナショナルチェーンは、外から見る効率的なイメージとは裏腹に、実際の店舗運営は非常に属人的で、人間臭い仕事だなと感じたことを覚えています。

──卒業後、他社で修業をされたのですね?

徳田 父の勧めで、卒業後の1年間は大阪にある教育会社の「後継者育成」のカリキュラムに参加しました。六甲山を全走するような身体的な訓練もあれば、リーダーシップ論、会計・財務などの実務、『論語』や松下幸之助さんの哲学といった座学もありました。参加している他の方々は、すでに管理職になっていたり、すでに社長を継いでいたりする人ばかりでした。

──他の皆さんは実務経験があったのですね?

徳田 そうなんです。自分は正社員としての社会人経験がない。だから、皆さんの苦悩や悩みに共感できない。皆さんに共有できる話がなく、教えてもらうばかりでした。そういう意味で、精神的にきつかったです。ですが、身内ではない講師や他社の先輩方からの言葉は、素直に刺さりました。特に「リーダーは常に人に見られている。率先垂範で動け」という教えは、自分の軸になりました。もしかしたら、同じことを祖父や父から言われていたら反発していたかもしれません。福岡のパチンコホールで修業させていただいたのは、この研修を終えてからです。

──印象深い学びなどはありましたか?

徳田 パチンコホールでのアルバイト経験はあったとはいえ、社会人として働くとなると、責任も違うしこちらの意識も違います。ただ、実家の三栄と比較する知識はないので、とにかくその会社のやりかたを素直に吸収しようという姿勢でした。そこで気づいたのは、接客の大切さでした。ユーザーとして遊んでいた時は「当たり前」だと思っていた快適な環境は、実は従業員の努力によって作られていた。不快な思いをさせないための気配り、先回りの重要性を理解しました。受け入れてくださった会社の配慮で、新店の立ち上げにも参加させていただきました。同世代が多かったので、とにかく楽しい3年間でした。

──三栄に入社された当初、強く意識していたのはどんなことでしたか?

徳田 社員の中には警戒心もあるだろうから、自分から積極的にコミュニケーションをとることを意識していました。当時26歳で、社員の多くは20代から30代と近いですから、その点はさほど苦労しませんでした。当時10店舗あったので、各店で3カ月ずつ勤務していき、食事をしながらの雑談などで先輩たちから話を聞くようにしていました。修行していた福岡の会社と三栄では考え方が異なる点もあるし、個々の店長ごとにも個性があって、同じ問題でも捉え方が違いました。それが非常に興味深かったですね。

──後継者育成研修で教わったことの中で特に意識していたことは?

徳田 やはり、「見られている」ということです。ですから率先垂範を意識していました。問題が起きれば一番に駆けつけて対応する、自分が矢面に立って対処する。そういった姿を見せないといけないと考えていました。人間は感情で物事を判断することが多々あると思いますので、その感情をいかに受け入れてもらえる態勢を作るかは大事だと思います。

>>> 中編へ続く(9月21日に公開予定)

徳田 智一 株式会社 三栄 代表取締役社長

徳田智一(とくだ・ともかず) 
1983年8月生まれ。大学卒業後、福岡県のパチンコホール企業で3年間の勤務を経て、2009年に三栄に入社。2026年4月に代表取締役に就任。業界団体のMIRAIぱちんこ産業連盟では2025年より青年部会長を務める。

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