復活者列伝 01 ─どん底で捨てなかった『型(品格)』が、最強の再就職を実現する【立花宗茂】

永禄10年(1567年)、宗茂(むねしげ)は九州の激戦区で、高橋家という国人領主の家に生まれた。九州最強の将と称された立花道雪に見込まれ、養子として立花家へ入る。実父と養父、二人のリーダーから現場の最前線で「組織の動かし方」を叩き込まれた。彼の向上心と学習能力は、彼を弱冠にして組織の若きトップ幹部へと押し上げたのだ。

彼の名は、九州という地方マーケットに留まらなかった。中央の最大手、豊臣秀吉が九州へ進出してきた際、宗茂は圧倒的な防衛戦を展開し、組織を守り抜く。その手腕を目の当たりにした秀吉は、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と絶賛した。

いわば、地方法人の若き幹部が、業界最大手の会長から直接「君、うちの幹部でも通用するよ」と公開ヘッドハンティングの打診を受けるようなものだ。事実、宗茂は秀吉の直臣(直轄の幹部)として、独立した地位を確立していく。

しかし、栄華は長くは続かない。豊臣秀吉という絶対的なカリスマが世を去り、徳川家康という「新勢力」が実権を握ろうとする時代がやってきた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い。世の中の風向きは完全に徳川へ流れていた。周囲の幹部たちは次々と徳川へと寝返り、保身に走る。だが、宗茂は違った。

「先代(秀吉)への恩義がある。理屈ではない」

彼はあえて負け筋の「西軍」に留まった。結果は、西軍の惨敗。宗茂は戦わずして大坂城を退去し、九州へと戻るが、新政権となった徳川から下された沙汰は非情だった。

「領地全没収、改易(解雇)」

昨日まで13万石を動かしていたエリート幹部は、一晩で住む家も、肩書きも、給料もすべて失う「無職の浪人」へと突き落とされたのだ。

江戸へ流れた宗茂の生活は悲惨だった。かつての部下数名と長屋に住み、今日食べる米にも事欠く毎日。家臣たちは主君に食べさせるため、虚無僧に扮して托鉢(募金活動)をして回ったという。

「かつての出世頭が、道端で小銭を乞う」

現代で言えば、エリート部長がリストラされ、公園で炊き出しを待つような光景だ。しかし、ここからが宗茂の真骨頂だった。

彼は腐らなかった。ボロを纏っても、背筋を伸ばし、言葉遣いを崩さず、武士としての「型(品格)」を捨てなかった。 ボロ家で粥を啜っていても、朝の挨拶を欠かさず、身だしなみを整え、訪ねてくる者には礼を尽くした。近所の住民たちは、彼が何者か知らずとも「あの方は、ただ者ではない」と敬意を払ったという。

また、どんなに困窮しても、自分を慕ってついてきた部下たちを誰一人解雇せず、なけなしの粥を分け合った。彼は「組織の看板」を失っても、「リーダーとしての振る舞い」という無形資産を手放さなかったのだ。

やがて、その噂は新オーナー・徳川家康の耳に届く。

「立花宗茂は、浪人になっても一切恨み言を言わず、泰然と過ごしている」

家康は驚愕した。かつての敵でありながら、その一貫した「仕事の型」と「部下からの信頼」に、プロとしての真価値を見たのだ。

「あれほどの男を、埋もれさせておくのは業界の損失だ」

慶長8年(1603年)、九州の情勢や豊臣時代の内情を知り尽くしていた宗茂は、徳川に経営アドバイザーとして召し抱えられ、棚倉1万石の困窮生活から再起を果たす。そして元和6年(1620年)、ついに彼は、かつて失った旧領・柳川10万石への復帰を成し遂げた。関ヶ原で敵対し、改易された大名の中で、旧領に返り咲いたのは、後にも先にも立花宗茂ただ一人である。

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大事なことは「看板を外した後の自分」をどう定義するかだった。
肩書きや権限がある時に優秀なのは当たり前です。しかし、理不尽な左遷や代替わりで「無」になったとき、それでも捨てなかった貴方の「礼節」や「専門性」、部下たちを想う「誠実さ」こそが、次のオーナーを動かす最強の経歴書になるのす。

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